『黒澤映画ゼミナール』〜黒澤明的リーダーの条件〜

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zoom RSS 昭和の男と女 / Lifeカード会員用月刊誌掲載(平成元年5月号)

<<   作成日時 : 2009/01/11 01:38   >>

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昭和六十四年一月六日、僕は結婚を申し込んだ。彼女は三年前に別れた同い年の女の子だった。
彼女と知り会ったのは大学二年の冬・・・・・・今から六年も前だ。「映画監督になるねん」と豪語しては、「夢があって倖せやなー」と笑われていた頃だ。今でこそ友人も両親も「頑張れよ」と励ましてくれるが、当時その夢をまじめに聞いてくれたのは彼女だけだった。



二十歳の時の失恋を題材に、8mm映画を作った。それがもとで、大学四年の六月、映画『乱』のメイキングビデオの仕事が舞い込んだ。観念して就職活動を始めようと考えた矢先の事だ、黒澤監督を僕が尊敬してると分っていても、両親は反対した。『乱』の後、映画の道へ進める保証は全くなかったからだ。
彼女は「行くべきだ」ときっぱり言った。十ヶ月会えなくなることも問題にしなかった。

『乱』を終えて東京に出る時も、彼女は堂々と見送ってくれた。本気で悦んでくれた。
僕は上京後もついていた。
『乱』で知り会った役者さんの紹介で、ワイドショーの取材ディレクターになった。事件の当事者に接することは、演出力を養う上で役立つと考え引き受けた。少し安定したものの、経済的にはぎりぎりだったので彼女を呼ぶ気にはまだなれなかった。

「あの時、呼んでほしかった」
三年ぶりで会った彼女はそう呟いた。
その年の十二月で、僕はワイドショーを辞めた。翌年からはフリーの助監督となる。二時間ドラマに見習いで就いた。月収三万六千円だった。
テレビとはいえ、僕にとっては映画だった。毎日が面白くて仕様がなかった。終電で帰宅、五時半起床も苦にならなかった。

この年の春、僕等は別れた。二十四歳だった。
京都ロケが終わった日、彼女を梅田に呼び出した。僕が最終の新幹線で帰らねばならぬというのに、彼女は黙っていた。彼女の両親は養子を望んでいたので最初から僕等に反村だった。特に母親が、ヒステリックに彼女を責めていたらしい。そんな母と煮え切らぬ僕とに挟まれ、彼女は疲れ果てていた。
あと三年待て、とは言えなかった。

70mmアストロビジョン・・・・・・『映像詩 富士』の助監督を一年やって、この全天周大型映画に魅せられた。3分〜20分の短編だが、人々に感動を与える表現手段としては十分だ。今年の春には、演出をやることになっている。
僕は彼女に会いたくなった。

彼女は去年の九月に見合いをして、先方の返事を待っている状態だった。

恋愛はもうしない・・・・・・あの時そう決めたと彼女は言う。
「一緒になろう。今ならまだ間に合う、両親を説得させてくれ!!」
もう親に抵抗するほど若くはない。何より絶対母は許さない。貫方と比較せずに好きになれそうな人だから、彼の返事があるまでそっとしててほしい。遅くとも三月までだ。私の気持ちもその時にこそはっきりするはずだから。

一月七日早朝、一人で東京に戻った。翌八日は彼とデートらしい。僕は2DKのアパートを探してみたりした。

そして三十一日、手紙をもらった。

結婚します。
彼の口からプロポーズされ、迷わず返事ができました。今年貴方に会えたから、結論が出せたのだ
と思います。
心からありがとう
本当にありがとう

とてもうれしそうな、かわいらしい手紙だった。

僕は“おめでとう”と大きく書いて返事を出した。 (1989年執筆)

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